マルコの二階部屋

退職司祭が主日の説教原稿や日頃の思い等を掲載します。

聖霊降臨後第7主日(特定12) 『執拗な祈りに応じる神様』

 本日は聖霊降臨後第7主日、新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、創世記 18:20-32、詩編 138、コロサイの信徒への手紙 2:6-15及びルカによる福音書 11:1-13。説教では、「主の祈り」と、一人一人が願う祈りを、日々、執拗に図々しく「求め、探し、叩」き続ければ、神様は必ず祈りに応じて聖霊を送ってくださることを知り、そうできるよう、祈り求めました。
 先週ブログで記したレーナ・マリアさんの信仰やテーマと関係するニューヨーク大学リハビリテーション研究所の壁にある「祈り」にも言及しました。
 本日の説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 皆さんは、レーナ・マリアさんをご存じですか? 先週、ブログにこの方のことを記しましたら、多くの方が読んでくださいました。レーナ・マリアさんは現在56歳のスウェーデンの歌手で、生まれつき両腕がなく左足は右足の半分の長さしかないというハンディを持ちながら、歌を通して世界中に神様の愛を伝えている方です。水泳でパラリンピックにも出たり、足の指で絵筆を挟み絵を描く画家でもあります。

 もちろん、足の指で鉛筆を挟み字を書くこともできます。多くの人に生きる力と勇気を与えているレーナさんですが、ここに至るまでには多くの悩み・苦しみがあったことは想像に難くありません。それができたのは、彼女の信仰と神様の導きのゆえと思うのであります。

 さて、本日は聖霊降臨後第7主日、聖書日課は特定12です。福音書はルカ版の「主の祈り」、執拗に祈り続けることの大切さを教えるたとえ、それに「求め」「探し」「叩きなさい」と神様に願うようにとの勧めです。第一朗読は創世記のアブラハムがソドムのために必死に主に取りなす箇所、第二朗読はコロサイの信徒へパウロが「キリストにあって歩みなさい」と勧める箇所が選択されています。

 福音書を中心に考えます。この箇所(ルカによる福音書11章1節から13節)は3つの部分からなっています。①主の祈り(1-4節)、②真夜中の友人のたとえ(5-10節)、③神の誠実な応答(11-13節)です。
 本日の箇所を振り返ります。

 ある時、弟子の一人が祈りを終えたイエス様に「祈りを教えてください」と教えを求めました。それに対してイエス様は「祈るときには、こう言いなさい。」とルカ版の「主の祈り」を教えました。2節から4節です。
 イエス様は「主の祈り」を通して「生き方の理想」を伝えました。それは、「神の国」、すなわち神様が支配されている状態を求め実践していくことであり、人間が生きていく上で必要なものは何かを知り、それを求めるということです。それは、創造主である神様を「父よ」と呼び、御名が聖とされることであり、御国が来ることであり、必要な糧を求めることであり、罪の赦しを願うことであり、試みに遭わせないでほしいということです。
 この箇所で、今回、私の心に特にとまったのは4節の前半の言葉です。「私たちの罪をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」とあります。以前の文語の主の祈りでは「我らに罪を犯す者を我ら赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」となっていて、「人の罪を赦すから私たちの罪もお赦しください」というニュアンスで、信仰に入ったばかりの頃、「私は人の罪を赦すことなどできない」と思ったことを思い出しました。
 現行の口語の「主の祈り」は「私たちの罪をお赦しください。私たちも人を赦します」となって、まず神様に罪の赦しを祈り、その後、私も罪を赦します、という形で、かつてより祈りやすくなったように思います。
 かつての私は、努力すれば人の罪を赦すことができるようになると「人間的に」考えていたように思います。しかし今は、私たちにはできないけれど、「神様にはできる」と考えています。それは、人の罪を赦すということは神様から与えられるものだということを分かった上で、そのことを日々、神様に祈っていくほかはないということです。

 そのような祈りを捧げていくとき、その思いをどのように持ち続けていけばよいかを、イエス様は次の「真夜中の友人のたとえ」といわれる話を通して教えられました。
 
 聖書はこう記しています。5節から7節です。ここでは、真夜中にパンを貸してほしいと友達の家に行った人が「起きて何かあげることなどできない。」と断られるたとえが語られます。
 パレスチナ地方は暑いですから、夕方涼しくなってから歩き始め、時には夜に客人がやって来ることもあるようです。旅人をもてなすのは当然しなければならないことで、それをしないのは、失礼に当たります。しかし、真夜中ですし、もてなす物も既にありません。それで友達の所にパンを借りにやって来ました。しかし、友達は何度ノックをしても起きてくれません。それでも叩き続けたのでしょう。中から断りの返事が聞こえました。
 当時の多くの家は一部屋しかありません。日中は扉が空いていて出入り自由ですが、一旦戸締りをしたら「邪魔をしないでください」という印になるのです。寝る時も地べたの上に藁などを敷いて、家族全員が一緒に眠ることが多かったようです。ですから、一人が起きると皆を起こすことになります。だから「面倒をかけないでくれ。」ということになるようです。ところが、イエス様はこうおっしゃいました。8節から9節です。
「しかし、言っておく。友達だからということで起きて与えてはくれないが、執拗に頼めば、起きて来て必要なものを与えてくれるだろう。そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。」
 「執拗に頼めば」とあります。直訳は「図々しさのゆえに」です。夜中に友人の家に出向きパンを借りる「図々しさ」があるかどうかが問われています。「面倒をかけないでくれ」と言われても「困っているのだから頼む」と頼み続ける「図々しさ」がありますか? ということなのです。そのようにすれば、9節から10節ですが「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。」と。これが神様の原則だと言っているように思います。なお、ギリシャ語の二人称・命令形は継続を意味しますので、ここは「求め続けなさい。探し続けなさい。叩き続けなさい」という意味で、そうすれば、原文は未来形で「与えられるだろう。見つけるだろう。開かれるだろう」ということです。人の取るべき態度は「執拗に頼む」ことであり、そうすれば願いが叶えられるとイエス様は述べておられるのです。

  最後にイエス様は、11節から13節で神様の誠実な応答について述べています。 ここでは、魚を欲しがる子どもに蛇を与える父親、卵を欲しがる子どもにさそりを与える父親はいない、という例を通して、世の父が自分の子に良い物を与えるなら、天の父はもっと良い物(聖霊)を与えてくださる、と言っています。
 泳いでいる蛇と魚は一見すると見間違います。ガリラヤ湖には、海蛇が生息していて、漁をすると魚と海蛇が一緒に網にかかるそうです。子どもが「魚をください」と言うのに、似ているからといって蛇をあげるでしょうか? 
 さそりは卵の殻を破り、中身を食べ、殻を住み家とします。また、白色のさそが身を丸くすると、卵のように見えるそうです。似ているからといって危険なさそりを与えるでしょうか? いくらあなた方が「悪い者」であっても自分の子どもにはそんなことはせず、良い物を与えるでしょう。まして、天の父なる神様は愛する私たちの求めに応じて聖霊(良い物の以上のもの)を与えてくださるでしょう、とイエス様はおっしゃっておられます。
 聖霊は、祈る私たちを助けるペルソナ(位格)をもった神様です。祈りの中で、私たち自身が整えられ、本当の必要に気づかされたり、行動の力が与えられたりするのも聖霊の働きと言えます。父なる神様は、祈り求める私たちに良い物以上のもの(聖霊)を与えてくださるのです。
 
 私たちはどう祈っているでしょうか?
 「執拗に頼」んでいるでしょうか? 頼み続ける「図々しさ」を持っているでしょうか?
 
 本日の福音書で、イエス様は、私たちに必要なことは、慈愛の神様に「父よ」と呼びかけて祈り、執拗に「求め、探し、叩」き続けることであるとおっしゃっておられます。それを忠実に行えば、祈りに誠実に応える神様は必ず聖霊を私たちに送り、必要な助けを与えてくださいます。私たちは聖霊によって常に新たにされ、新たな力を手にするのであります。そしてそれは、祈りによってなされるのです。

 先ほど聖書朗読の前に歌った聖歌548「しずけき祈りの」をご覧ください。この1節にこうあります。 
 1 しずけき祈りの 時はいと楽し
  悩みある世より われを呼びいだし
  父なる み神に すべての求めを
  たずさえいたりて つぶさに告げしむ
 ここでは静かに祈る時はとても楽しい、そこでは父なる神様に求めるものを残さず告げさせた、と歌っています。
 この聖歌には英語で「Sweet Hour of Prayer」という題がついています。直訳すると「祈りの楽しい時」です。楽しいのは、3節で示しているように、慰めが与えられ、喜びで満たされるからです。祈りは、このように楽しいものなのであります。

 本日の福音書で示された、イエス様が教えてくださった「主の祈り」と、一人一人が心に願う祈りを、日々、執拗に図々しく「求め、探し、叩」き続けることができるよう、祈り求めたいと思います。 

 冒頭お話ししたレーナ・マリアさんも、きっと自分の障害等について祈ってきたと思います。そして、神様に直接自分の思いを告げたと思います。しつこく祈ったと思います。「神様、私はどうしてこのような体なのでしょうか?」と。しかし今、レーナさんは、聖霊の導きにより、それには意味があり、「神様は意図を持って私をこのようになさった」と考えていると私は思うのです。
 そのことで思い浮かべる「祈り」があります。それはこの本、2004年に逝去された金子功司祭の遺稿集「主の祈りの世界をたずねて」の中で紹介された「祈り」です。

 受付で取っていただいた説教資料に記載しました。これは、ニューヨーク大学リハビリテーション研究所の壁に、一人の患者が残した「祈り」です。ご覧ください。これを読んで、本日の説教を終わりにします。

大きな事を成し遂げるために、強さを求めたのに、謙遜を学ぶようにと、弱さを授かった。
偉大な事が出来るようにと、健康を求めたのに、より良き事をするようにと、病気を賜った。
幸せになろうとして、富を求めたのに、賢明であるようにと、貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようと、成功を求めたのに、得意にならないようにと、失敗を授かった。
求めたものは何一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞きとげられた。
神の意に添わぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた。
私は最も豊かに祝福されたのだ。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン