マルコの二階部屋

退職司祭が主日の説教原稿や日頃の思い等を掲載します。

聖霊降臨後第9主日(特定14) 『信仰の灯をともし続ける』

 本日は聖霊降臨後第9主日、新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、創世記 15:1-6、詩編 33:12-22、ヘブライ人への手紙 11:1-3・8-16、及びルカによる福音書 12:32-40。説教では、主に従う小さな群れに神は神の国(主イエス・キリストによる平和)をお与えになり、イエス様は身支度を調え、信仰の灯をともし続けるよう命じていることを知り、天に宝を積む生活をし、すべての希望を神に置く信仰を持ち続けるよう祈りました。
 テーマと関係づけて、先日観た映画「長崎-閃光の影で-」の内容や本日の礼拝で歌った聖歌272の歌詞にも言及しました。
 本日の説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 今年は先の大戦終結から80年。新聞やテレビ等で連日、特集をしています。先ほど、特祷の後に主教会が作成した「戦後80年を覚えて」の祈りを捧げました。ここでは主の平安と共に私たちが平和の器となれるよう祈りました。
 昨日は長崎原爆の日でしたが、私は先日、5日、伊勢崎が日本歴代1位の41.8度を記録した暑い日に、シネマテーク高崎で映画「長崎-閃光の影で-」を観てきました。

 この映画は、一発の原爆が多くの人の人生を狂わせ悲劇を生んだ現実や自身も被爆しながら懸命に救護に当たった看護学生たちを描き、その中でもある種の希望を感じさせてくれる映画でした。それは、自身も被爆3世でカトリック信徒である松本准平監督の信仰によるものと思いました。

 さて、本日は聖霊降臨後第9主日、聖書日課は特定14です。福音書ルカによる福音書 12:32-40で、この箇所でイエス様は、彼に従う小さな群れに神様は神の国を与えるゆえ、宝を天に積む生活をし、すべての希望を神様に置く信仰を求めています。その信仰はキリストが再び来臨する時まで保たれるべきものです。第一朗読の創世記15章では、アブラムが全く信じられない状況で主を信じ、それを主は彼の義と認められました。また、第二朗読はヘブライ人への手紙の11章で、「信仰とはどのようなものか」をパウロが語っています。

 福音書を中心に考えます。本日の福音書の箇所は、イエス様が弟子たちに語っていて、先週の「愚かな金持ち」の話の後、「思い煩うな、ただ神の国を求めなさい」という教え(22-31節)に続いて語られたものです。今日の箇所は大きく2つの部分からなっています。前半部分は32-34節、後半部分は35-40節です。

 前半は、「宝を天に積みなさい」ということが記されています。
 32節で 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」 とイエス様はおっしゃいました。この当時、弟子たちはユダヤの社会の中で小さな群れでした。その弟子たちに、「恐れるな」とイエス様はおっしゃいます。私たちキリスト者も、今の日本の社会では本当に小さな群れです。その私たちにもイエス様は「恐れるな」とおっしゃっています。また、この社会には小さくされた人々が多くいます。その人達にも「恐れるな」とイエス様はおっしゃっております。そしてそのような小さな群れに、「父なる神様は喜んで神の国、神が統治される世界を与えられる」とイエス様はおっしゃっておられるのです。これは福音(良い知らせ)であり、大きな喜びです。この喜びにふさわしい行動が33・34節に示されています。こうあります。
「自分の財産を売って施しなさい。古びることのない財布を作り、尽きることのない宝を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
 この世の財産を売って自分から放し、他者へと施す。ここから尽きることのない天の宝との関係が始まります。「あなたがたの宝」は「天の中に」あります。天は「盗人も近寄らず」「虫も食い荒らさない」ところですから、宝は盗み取られることはなく、財布もぼろぼろになることはないのです。
 天における報いは、地上のものと異なり、朽ちず、損なわれず、いつまでも保ちます。だから、地上のことよりも、天のことや神様のことを考えていなさい、「宝を天に積みなさい」とイエス様はおっしゃっています。

 後半は、主人がいつ帰ってきてもいいように「目を覚ましていなさい」というたとえ話が述べられています。主人とは神様のことと考えられますから、「神様がいつ来られてもいいように備えなさい」ということを意味しています。神様が来られるというのは、一つには、私たちが死を迎える時とも考えられます。日本語でも「お迎えが来る」という言い方をしますが、まさに死の時に神様がお迎えに来るというのです。また、もう一つは、キリストが再臨され、この世が裁かれ、神の国が完成する時です。このどちらも私たちには、いつ来るのか、分かりません。このいつ来られるのか分からない神様が、そしてキリストが、「いつ来られても良いように準備する」ことが求められています。                         
 少し詳しく見ていきます。
 35節「腰に帯を締め、灯をともしていなさい。」
 腰に帯を締めるとは、仕事をしやすいように、衣の裾(すそ)を上げることです。ここは、英語の聖書(NIV)では「Be dressed ready for service and keep your lamps burning, 」とありました。つまり、「サービスのため身支度を調えなさい、そして、あかりをともし続けなさい」と命じられているのです。あかりとは何のことでしょうか? これは「信仰のあかり」と考えられます。
 では信仰とは何でしょうか? 今日の使徒書、ヘブライ人への手紙11:1-3にこうあります。
「信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです。昔の人たちは、信仰のゆえに称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって造られ、従って、見えるものは目に見えるものからできたのではないことを悟ります。」
 信仰とは希望を信じ、この世界を神様が創造したことを認めること。何かが成ってからとか、何かを理解してから、ではなく、はじめに信じる。そうすることによって、新しい現実・理解が生まれてくる。そうパウロは語っています。
 私たちは、サービスのため身支度を調え、信仰のあかり・灯をともし続けるよう命じられていますが、福音書の36節でその具体策が示されます。それは「主人が婚礼から帰って来て戸を叩いたら、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」ということです。
 さらに、37節後半にはこうあります。
「よく言っておく。主人は帯を締めて、その僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕をしてくれる。」
 ここでは常識では考えられないことが語られています。主人が僕の給仕をするるというのです。主人であるイエス様自身が腰に帯を締めて、私たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくださるのです。これはイエス様が再び来られる時の神の国の食卓を表しているとされています。さらに言えば、この食卓は、神の国の先取りである聖餐式を表しているとも考えられます。私たちが毎主日行っている聖餐式は、実はイエス様ご自身が給仕してくださる神の国の食卓であると言えます。なんともありがたい食卓に私たちは毎主日預かっているのです。
 38節です。
「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」
 これは、イエス様が今日、戻ってこられるかもしれない。今、この時間に戻ってくるかもしれない、と考えることです。
 当時のユダヤの婚礼は宴を含めいつ終わるか分からないほど長いもので、通常1週間、時には2週間続くようなこともあったそうですが、その終わりが真夜中や夜明けだとしても、主人が家に帰ってくるのは確実です。主人が家に帰ってきた時に「目を覚ましている」僕たちは大きな喜びに出会うことになります。
 39-40節はこうです。
「このことをわきまえていなさい。家の主人は、盗人がいつやって来るかを知っていたら、みすみす自分の家に忍び込ませたりはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
 家の主人は盗人が襲来する時刻を知らないから、泥棒に入られてしまう。それほどに、盗人は不意をついて侵入するのです。それと同じように「人の子、イエス様」も不意をついて到来します。しかし常に目を覚まして「用意して」いれば、不意をつかれることはありません。主人が帰るという希望に励まされ、目を覚まして信仰にしっかりと立ち、主の到来を待つことが勧められています。

 キリストを信じる者の特徴は「目覚めて待つ」ことにあります。目覚めて待つためには、神の思いに添って、天に宝を積み、心を天に向ける必要があります。神の国が必ず与えられることを信じて待つのです。主キリストが準備し、給仕する食事があると知っている者は、信仰に立って、希望という「灯」を掲げているのです。そして、それこそが「主にある平和」です。

 そのことを先ほど歌った聖歌272番は示しています。1節にこうあります。
「1 小さなともしび きらめく平和 手のひらに包み 守れるように」
 そして5節はこうです。
「5 小さなともしび 宝のように 互いに分け合う 主イエスの平和」
 小さな希望のともしび、それは主イエス・キリストにある平和なのです。
 さらに、3節・4節。
「3 あふれる平和を 今分かち合う いたわるまなざし パンを裂くとき
 4 ひとつに結ばれ 食卓かこみ 手のひらに包む キリストの糧」
 主イエス・キリストにある平和を、聖餐により御聖体として私たちは受けることができるのです。この平和は「神の国」と言い換えることができます。

 冒頭、お話しした映画「長崎-閃光の影で-」では、終盤で、被爆しガラスが目に刺さり盲目となった妊婦が出産後亡くなり、孤児となった乳児がカトリックの孤児院(聖母の騎士園)で大切に育てられる様子がありました。それは小さな灯であり、主イエス・キリストにある平和でした。南果歩演じるその施設の職員・令子の言葉「私たちは生かされている。私たちがなすべきことは生きて忘れないこと」が心に残りました。そしてそれは、すべての希望を神様に置く信仰から生まれた言葉だと思うのです。

 皆さん、神様は主に従う小さな群れに神の国をお与えになります。それは主イエス・キリストによる平和です。イエス様は身支度を調え、信仰の灯をともし続けるよう命じておられます。そして、目を覚まして主イエス様を待っていれば、イエス様ご自身が私たちに霊の糧を給仕してくださるのです。ですから、私たちは天に宝を積む生活をし、すべての希望を神様に置く信仰を、自分の死や主の来臨まで持ち続けたいのです。そうできるよう日々祈るものであります。
                                     
  父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 

『レーナ・マリアに思う(2)』

 7月24日のブログや7月27日の説教でも触れたレーナ・マリア、先日、前橋ハレルヤブックセンターで「百万人の福音」の最新号で彼女のインタビューが掲載されているのを発見し、その雑誌を購入しました。

 7年ぶりに今年4月上旬に来日したレーナさんですが、今を生きる多くの人に変わることのない神の愛と平安が届くように願いを込めて歌い、こう言っています。
「生活には確かにお金も、災害への備えも必要です。でも、どんなに多く蓄えても、人が満足することはなく、心配は尽きません。
 でも神様は聖書で繰り返し、心配しないよう語りかけ、『私が助け、面倒を見る』と約束してくださっています。例えば今、咲いている桜を見てください。私たちが喜べるようにと神様が与えてくださる恵みはごく身近にあって、お金のかからないものが多いのです。そこに心を向けるなら、人はすぐ幸せになれます。」
「どんなに多く蓄えても、人が満足することはない」というメッセージは、先主日の「愚かな金持ちのたとえ」のテーマと共通するものと言えます。そして、それは「宝は天に積みなさい」という次主日の聖句につながると考えます。

 レーナ・マリアについては、以前紹介したライフライン(キリスト教番組)で特集の続編があります。「愛に輝く歌声!〜レーナ・マリア コンサート2025〜・2」というタイトルで、以下のURLで観ることができます。ここではレーナさんの日常生活、片足で車を運転したり調理をしたりパソコンを売ったりという様子もあります。
 https://www.youtube.com/watch?v=SafKDecVTyw&t=30s

 この番組のコンサートの最初の曲が「Through It All(すべてを通して)」で、レーナさんの人生を表していると思いました。このような歌詞です。

I've had many tears and sorrows
I've had questions for tomorrow
There's been times I didn't know right from wrong
But in every situation
God gave me blessed consolation
That my trials came to only make me strong
私は多くの涙と悲しみを経験しました 
明日への疑問もありました 
善悪がわからなくなる時もありました
しかし、どのような状況においても、神は私に祝福された慰めを与えてくださいました 
試練は私を強くするためにありました

※    Through it all  Through it all
I've learned to trust in Jesus
I've learned to trust in God
Through it all  Through it all
I've learned to depend upon His Word
※    すべてを通して そのすべてを通して
私はイエスを信頼することを学びました 
私は神を信頼することを学びました 
すべてを通して そのすべてを通して
私は神の言葉に頼ることを学びました

I've been to lots of places
I've seen a lot of faces
But there were times that I felt so all alone
But in my lonely hours
Yes, those precious lonely hours
Jesus lets me know that I was His own
私はたくさんの場所に行ってきました 
たくさんの顔を見てきました
しかし、とても孤独を感じた時もありました
でも、その一人になる時が
そう、大事な時間でした
エスは私がご自分のものであることを知らせてくれました 

※    Through it all・・・

So I thank God for the mountains
And I thank Him for the valleys
And I thank Him for the storms He's brought me through
For if I'd ever had a problem
I'd never know that God could solve them
I'd never know what faith in His word could do
だから、私は山々のために神に感謝し
谷のために神に感謝し
そして嵐が私を導いてくださったことについて神に感謝します 
なぜなら、もし私が問題を抱えたことがなかったら
神がそれらを解決できることを決して知らなかったでしょう
神の言葉を信じる信仰が何をもたらすのか
知ることもなかったでしょう 

※    Through it all・・・

 ここでレーナさんは、試練や困難を通して信仰を深めることができることをテーマに歌っています。この歌詞は、自分の経験した悲しみや孤独、困難な状況を振り返り、それらの試練を通じて神が私を支え、強めてくださったことに感謝しています。山や谷、嵐を通じて神の力を実感し、神を信じることの大切さを伝えています。レーナさんの歌声はストレートに聴く人に響き、聴いた人は信仰の核心、素晴らしさを感じるに違いありません。

 冒頭記した「百万人の福音」のレーナさんのインタビューの最後にこうあります。
「障害の有無に関係なく、人は皆ユニークで特別な存在、誰かに与えられる何かを持っています。そんなお互いが支え合い、一緒に生きるとき、社会は真の意味で豊かに成長し、皆が心地よく、ありのままでいられる場所になるはずです。その支え合いも義務ではありません。恵みです。最初に神様が私たちを愛し、助け、支えてくださった。私たちは自力ではなく、受け取ったその愛で愛し合い、支え合うのですから」
 レーナさんが自身の生き方で示された、誰にも神から与えられたその人ならではの賜物があることを心に刻み、それを分かち合うことができるよう祈り求めます。

聖霊降臨後第8主日(特定13) 『良きものを分かち合い豊かにされる』

 本日は聖霊降臨後第8主日、高崎の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、コヘレトの言葉 1:1・12-14・2:18-23、詩編 49:1-12、コロサイの信徒への手紙 3:1-11及びルカによる福音書 12:13-21。説教では、「愚かな金持ちのたとえ」から、自分に与えられた良きもの(蓄えや賜物)を他者と分かち合うことによって神のために豊かにされることを中心に話しました。
 テーマと関係する立教学院創立150周年記念映画「道のただなか」及びそこで紹介されたウィリアムズ主教の姿勢と行動にも言及しました。
 本日の説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 去る7月26日(土)に立教大学「群馬校友の集い」が前橋商工会議所で開催され、参加しました。西原廉太総長(中部教区主教)も来てくださいました。その中で、立教学院創立150周年記念映画「道のただなか」の上映会と、西原総長とこの映画を監督された鶴岡慧子(けいこ)さんのトークが行われました。映画「道のただなか」は上映時間1時間弱の監督・脚本は立教大学卒業の鶴岡慧子(けいこ)さん、キャストは立教の卒業生や現役生たちが多く出演した青春ロードムービーです。

 この映画の始まりのシーンは、大学の映画サークルのメンバーである主人公愼平が、ある先輩から「ウィリアムズ像が、どうして右手をポケットに入れているか知っている?」と問われ、一冊の本を手渡される場面でした。その本は、立教の創立者であり日本聖公会の初代主教となったウィリアムズ主教の伝記、「立教の創立者 C.M.ウィリアムズの生涯 道を伝えて己を伝えず (立教ブックレット 1)」でした。チャペル前にあるウィリアムズ像はこのようです。

 この本を一晩で読み終えた慎平は、ウィリアムズ主教の足跡をたどる旅に出て、そこで多くの方(現役の司祭4名を含む)との出会い等から、ウィリアムズ主教の人格や聖公会の特色を知り、人生の真実等の示唆を与えられます。
 この映画を紹介したリーフレットにはこうあります。
『日本に滞在した50年の間、母国アメリカへはわずか数回しか帰国しなかったウィリアムズ主教。その大いなる慈愛と熱情を、時にユーモラスなエピソードを織り交ぜながら描き、今を生きる若者の心の変容を映し出す。』
 「道のただなか」という映画の題名は、VIA MEDIA という聖公会が大切にしている精神に由来しています。VIAとは「道」、MEDIAは「真ん中」で「中道」と訳せますが、さらに深い意味があり、それはこのリーフレットにあるように、「私たちは真理を求めて、絶えず道のただなかを歩み続ける旅人である」ということです。映画ではこのことを、岸和田復活教会の石垣進司祭が愼平に語っています。
 この映画は、私たち日本聖公会の初期の様子や聖公会の精神もよく分かる内容となっています。Youtubeで観ることができますので、ぜひご覧ください。   https://www.youtube.com/watch?v=4wz038U8Kzg 

 さて、本日は聖霊降臨後第8主日福音書ルカによる福音書12;13-21の「愚かな金持ちのたとえ」です。この箇所は9:51から始まったエルサレムへの旅の途上で、弟子や群衆に語られたイエス様の教えの一つです。
 このような話です。

 群衆の一人がイエス様のところに来て、「先生、私に遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」と言いました。相続のこと、お金のことで頭がいっぱいになっている人がイエス様にそう言いました。イエス様をラビ(律法の専門家)と思って依頼したのかもしれません。イエス様はその人にこのような意味のことを言われました。
「私は裁判や調停のためにこの世に派遣されたのではない」と。
 なお、「遺産」と訳されたギリシャ語は、辞書に「相続財産」のほか「所有物」や「神から受けて確かにわが所有となってる所のもの」という訳もありました。「遺産」は、神様から与えられた財産、「賜物」と考えることもできるのではないでしょうか?
 そして、イエス様は周りにいる人々に向かって、こう言われました。
「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産にはよらないからである。」
「貪欲」とは、もっともっと自分のものとして取り込もうとする欲望のことです。そのことに気をつけ用心せよ、とイエス様はおっしゃいました。また、ここで言う「命(ゾーエー)」は単に生物学的な意味での命ではなく、天的・霊的な命であり、復活のキリストを通して神から受けて維持される「永遠の命」とも言えます。
 イエス様は「有り余るほど物を持ってい」るということが、「永遠の命」を保証することにはならない、と言うのであります。

 次に、イエス様は一つのたとえを語られました。
 ある金持ちの畑が豊作だった年、作物を納めるために大きい倉を建て、そこに穀物や蓄えを全部しまい込んで、この人は言いました。「この先、何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ」と。
 この金持ちの関心は自分のことだけと言えます。彼は自分のための蓄えができれば安心して楽しめると考えているのです。ここで「蓄え」と訳されたギリシャ語原文の直訳は「良きもの」です。
 しかし、神様は、『愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか』と言われました。
 ここの「魂(プシュケー)」は「息」とも訳せる「肉的生命」のことです。それが今夜取り上げられる、そうだとしたら自分のために蓄えても意味はない、おまえは「愚か者だ」と言われるのです。
 このようなたとえ話をした後で、イエス様は、言われました。「自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者はこのとおりだ。」
 このような話でした。 

 この、大きな倉を建て、自分の穀物や蓄えを全部しまい込んだ金持ちを、神様はどうして「愚か者よ(英語の聖書ではYou fool!)」と呼んだのでしょうか?
 この金持ちは、たくさん取れた穀物や蓄えを無駄にせず、飢饉の時にも対応できるよう蓄えたとすれば「賢い金持ち」ではないでしょうか?
 この金持ちの問題点、愚かさはどこにあるのでしょうか?  皆さんはどう思われますか?

 本日の箇所の最初で「遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」とイエス様に依頼した人は「遺産」を「神様から受けたもの」という思いはありませんでした。また、たとえ話の中の金持ちも、「豊作」を「神様から与えられたもの」という思いはありませんでした。この金持ちは、与えられた穀物も蓄えも全部自分のもので、自分のためだけに使おうとしていました。他人のために用いようとはしませんでした。それを神様は「愚か」と言い、自分のためだけに富を積む者を「愚か者」と言ったのだと思います。それでは、神様のために豊かにならないのです。逆に言えば、困っている人、貧しい人、やもめや孤児等に、穀物や蓄え(良きもの)を分かち合うことを「賢い」と言い、そうする人を「賢い者」と神様は呼ぶと思います。自分の持っている「蓄え(良きもの)」を神様から与えられたものと思い、他の人、ことに困っている人と分かち合えば神様に喜ばれ、真に豊かに生きることができるのです。
 
 本日の福音書のたとえ話では「自分のために財産の蓄えをしても、死んでしまったら自分の物はない」と言っています。だから、一生懸命自分のために蓄えることは意味がない、「空しい」とも取れます。
 そういう意味では、本日の第一朗読のコヘレトの言葉と響き合うものを感じます。この箇所には、知恵の探求や労苦の空しさが記されています。例えば、19節の言葉です。「その者が知恵ある者か愚かな者か、誰が知ろう。太陽の下(もと)で私が知恵を尽くして労したすべての労苦をその者が支配する。これもまた空である。」
 これは「先生、私に遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」と始まる本日の福音書の解答の一つになっているとも考えます。
 それは、イエス様の言う「人の命は財産にはよらない」ということです。言い換えれば、財産をいくら自分の中に蓄えても、他の人と分かち合わなければ神様のために豊かに生きることにはならない、ということです。
 
 神様が私たちに求めておられるのはどういうことでしょうか?
 それは、本日の第二朗読コロサイの信徒への手紙3;2で、パウロが「上にあるものを思いなさい。地上のものに思いを寄せてはなりません。」と言うように、上にあるもの(天)に目を向けることだと思います。
 また、私たちが、財産も豊作も、さらに言えば命さえも、神様から与えられたものであることを自覚し、自分に与えられた蓄え(良きもの)を他の人と分かち合うということだと思います。自分に与えられた蓄えや賜物を他者のために使うということです。「使命」という字は「命を使う」と書きますが、自分に与えられた命も他者のために使いたいと願います。

 冒頭お話ししました、映画「道のただなか」の中で紹介されているウィリアムズ主教は、まさに自分に与えられた蓄えや賜物を他者のために使った人物です。
 ウィリアムズ主教は、日本各地にいくつかの教会を立て、また立教や立教女学院などの学校を創立するなど、日本の宣教と教育の発展に、力を尽くしました。
  ウィリアムズ主教は、生涯独身で、謙遜と清貧に生き、自分に与えられた蓄えや賜物を他者のために使い、多くのエピソードが残されています。ウィリアムズ主教の伝記にもある、いくつかを紹介します。
 その一つはこうです。当時、米国聖公会の主教の月給は、現在の価値で約150万円だったそうですが、ウィリアムズ主教は、月約6万円で生活し、残りは全部、教会や学校の創立・運営や滝乃川学園等への資金援助に回しました。東京聖三一教会や現在明治村にある京都の聖ヨハネ教会も彼の献金で建築されたそうです。そして、そのことを公にしないように言っていたそうです。
 また、ウィリアムズ主教は、汽車は必ず3等車にしか乗車しなかったのですが、「なぜ3等車しか乗らないのか」と尋ねられたら、「4等車がないからです」とユーモアたっぷりに語ったとのことです。
 こんなエピソードもあります。神戸から船で横浜に向かっている時、ウィリアムズ主教が、あまりにもみすぼらしい服を着ているので、知人の船長が、「服は裏返すと新しく見えますよ」と教えました。するとウィリアムズ主教は、「この服は既に裏返した後で、また古くなったのです」と答えたそうです。チャペル前のウィリアムズ主教の銅像もこの一着しかない服を着ていたのです。そして、こうやって貯めたお金を伝道のために献げたのでした。なお、ウィリアムズ像が右手をポケットに入れているのは、ポケットの中にある金平糖を子供たちに会ったらすぐに渡すためでした。
 私たちは、このウィリアムズ主教の姿勢と行動から多くの学ぶべき点があります。

  皆さん、すべての人には必ず、その人ならではの賜物が与えられています。それを他者のために使い、他の人と分かち合うことを神様は求めておられます。それは、本日の特祷の中で「天の恵みによって新たにされた私たちが、平和を愛し、命のパンと人々を生かすまことの言葉とを、すべての人々と分かち合うことができますように。」とある通りです。

 私たちの「思い」や「言葉」や「お金」や「時間」を、他者の中におられる神様のために使うこと、それが「神様のために豊かにされる」ということだと思います。
 「人の命は財産にはよらないからである。」というイエス様の言葉を心に刻み、それぞれに与えられた良きもの(蓄えや賜物)を他者と分かち合い、神様のために豊かにされる日々を過ごしていきたいものです。 

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

『聖歌548番「しずけき祈りの」に思う』

 先主日福音書前に歌い、説教でも言及した聖歌548番「しずけき祈りの」ですが、この聖歌については、もっと思うところがありますので、今回取り上げ思い巡らしたいと思います。
 この聖歌は特に日本ではよく歌われ、多くの方の愛唱聖歌になっています。前橋の古い信徒の故S・M兄の愛唱聖歌で、4年前の通夜や葬送式でも歌いました。

 聖歌548番「しずけき祈りの」は多くの教派で歌われており、讃美歌では310番です。1・2節は多少言い回しの違うところがありますが、3節は全く同じ歌詞です。私はこの聖歌の本田路津子の歌唱(讃美歌310番)が好きで、CD「讃美歌アルバム」に収められていますが、以下のURLで聞くことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=XWnDE70zxdI&list=RDXWnDE70zxdI&start_radio=1

聖歌548番「しずけき祈りの」の歌詞は以下の通りです。

1 しずけき祈りの ときはいと楽し
  悩みある世より われを呼びいだし
  父なる み神に すべての求めを
  たずさえいたりて つぶさに告げしむ
2 しずけき祈りの ときはいと楽し 
  さまよいいでたる  わが心 救い
  あやうき道より ともない帰りて
  こころむるものの 罠をのがれしむ
3 しずけき祈りの ときはいと楽し 
  そびゆるピスガの 山の高嶺より
   ふるさとながめて のぼりゆく日まで 
  慰めを与え 喜びを満たす

 この聖歌では、苦難の時も祈りによって喜びと慰めが与えられることを賛美しています。歌詞は、祈りがいかに世俗的な心配事から離れ、神に近づくことを可能にするかを強調しています。曲は米国の賛美歌作曲家ウィリアム・B・ブラッドベリーがこの歌詞のために作曲し、歌いやすく叙情性に富み、現在まで我が国で親しまれています。

 聖歌548番「しずけき祈りの」の原題は「Sweet Hour of Prayer」で、オリジナルの英語の歌詞及び和訳は以下の通りです。

1 Sweet hour of prayer! sweet hour of prayer!  that calls me from a world of care,
and bids me at my Father's throne  make all my wants and wishes known.
In seasons of distress and grief,  my soul has often found relief,
and oft escaped the tempter's snare  by thy return, sweet hour of prayer!  
祈りの楽しい時! 祈りの楽しい時!  それは私を思いやりの世界から呼び、
父の玉座に命じ、私の欲求と願いをすべて知らせるように命じます。
苦しみと悲しみの時に、私の魂はしばしば安らぎを見出し、
あなたへの帰還、祈りの楽しい時によって誘惑者の罠からしばしば逃れることができました。

2 Sweet hour of prayer! sweet hour of prayer!  the joys I feel, the bliss I share
of those whose anxious spirits burn  with strong desires for thy return!
With such I hasten to the place  where God my Savior shows his face,
and gladly take my station there,  and wait for thee, sweet hour of prayer!
祈りの楽しい時! 祈りの楽しい時!  私が感じる喜び、不安な精神が
あなたの再臨を強く願っている人々と分かち合う至福の時!
私は救い主である神が顔を見せる場所に急いで行き、
そこに着いて喜び、そして、あなたを待ちます、祈りの楽しい時!

3 Sweet hour of prayer! sweet hour of prayer!  thy wings shall my petition bear
to him whose truth and faithfulness  engage the waiting soul to bless.
And since he bids me seek his face,  believe his word, and trust his grace,
I'll cast on him my every care,  and wait for thee, sweet hour of prayer!
祈りの楽しい時! 祈りの楽しい時! あなたの翼は私の嘆願を生み、
真実と忠実により魂を祝福するように招きます。
そして、神は私に彼の顔を求め、彼の言葉を信じ、彼の恵みを信頼するように命じたので、
私は神に私のあらゆる心配を委ね、あなたを待ちます、祈りの楽しい時!

4 Sweet hour of prayer! sweet hour of prayer!  May I thy consolation share,
Till, from Mount Pisgah’s lofty height,  I view my home and take my flight.
This robe of flesh I’ll drop, and rise  To seize the everlasting prize,
And shout, while passing through the air,  “Farewell, farewell, sweet hour of prayer!”
祈りの楽しい時! 祈りの楽しい時! あなたの慰めを分かち合いますように、
ピスガ山の高いところから、私は自分の家を眺め、私は飛び立ちます。
私は身にまとうこの身体を落とし、立ち上がり、永遠の褒美をつかみ、
そして、天空を通りながら叫びます。「今や別れの時。祈りの楽しい時!」

 日本語の聖歌は、1節は原文の2節と3節を合わせ、2節は原文の1節が、3節は原文の4節が対応しているように思います。うまく意訳し、格調高い韻文だと思います。
 
 聖歌548番「しずけき祈りの」に関して、冒頭記した故S・M兄の葬送式の説教で、私はこのように話しました。
『この聖歌「しずけき祈りの」の作詞者はウィリアム・ウォルフォードという19世紀前半に英国で伝道した盲人説教者です。聖書の言葉をほとんどすべて覚えていて、説教の時にはそれらを活用したと言われています。英語では、「Sweet Hour of Prayer」という題がついています。直訳すると「祈りの楽しい時」です。楽しいのは、慰めが与えられ、喜びで満たされるからです。
 3節にこうあります。
「しずけき祈りの ときはいとたのし そびゆるピスガの 山の高嶺より
 ふるさとながめて のぼりゆく日まで 慰めを与え 喜びを満たす」
 これは申命記34章、モーセが神の命令によってネボ山に登り、ピスガの頂から目の前に広がるカナンの地を見ている場面を歌っています。モーセは目の前に流れるヨルダン川を渡って、約束の地へ足を踏み入れることはできず、天に召されます。約束の地、ふるさとを眺める。ここに至るまでを思い出しているように思います。荒野においても常に神様が共におられたこと、不平を言っても糧を与えて下さる神様の深い愛、苦しい時にいつも神様が共に悩み導いてくれたこと。Mさんも信仰生活を歩む上でこの歌に励まされ、この世の旅路を終えた今、これまでのことを思い出し神様が共におられたこと、神様の愛や神様が共に悩み導いてくださったことを思っているのではないでしょうか?  』
 
 聖歌が心の琴線に触れ信仰生活を支えることのできる、一つの例をこの聖歌548番「しずけき祈りの」が示しています。「しずけき祈りの時」、「Sweet Hour of Prayer(祈りの楽しき時)」を日頃から持って、神とともにこの世の旅路を歩んで参りたいと思います。

聖霊降臨後第7主日(特定12) 『執拗な祈りに応じる神様』

 本日は聖霊降臨後第7主日、新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、創世記 18:20-32、詩編 138、コロサイの信徒への手紙 2:6-15及びルカによる福音書 11:1-13。説教では、「主の祈り」と、一人一人が願う祈りを、日々、執拗に図々しく「求め、探し、叩」き続ければ、神様は必ず祈りに応じて聖霊を送ってくださることを知り、そうできるよう、祈り求めました。
 先週ブログで記したレーナ・マリアさんの信仰やテーマと関係するニューヨーク大学リハビリテーション研究所の壁にある「祈り」にも言及しました。
 本日の説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 皆さんは、レーナ・マリアさんをご存じですか? 先週、ブログにこの方のことを記しましたら、多くの方が読んでくださいました。レーナ・マリアさんは現在56歳のスウェーデンの歌手で、生まれつき両腕がなく左足は右足の半分の長さしかないというハンディを持ちながら、歌を通して世界中に神様の愛を伝えている方です。水泳でパラリンピックにも出たり、足の指で絵筆を挟み絵を描く画家でもあります。

 もちろん、足の指で鉛筆を挟み字を書くこともできます。多くの人に生きる力と勇気を与えているレーナさんですが、ここに至るまでには多くの悩み・苦しみがあったことは想像に難くありません。それができたのは、彼女の信仰と神様の導きのゆえと思うのであります。

 さて、本日は聖霊降臨後第7主日、聖書日課は特定12です。福音書はルカ版の「主の祈り」、執拗に祈り続けることの大切さを教えるたとえ、それに「求め」「探し」「叩きなさい」と神様に願うようにとの勧めです。第一朗読は創世記のアブラハムがソドムのために必死に主に取りなす箇所、第二朗読はコロサイの信徒へパウロが「キリストにあって歩みなさい」と勧める箇所が選択されています。

 福音書を中心に考えます。この箇所(ルカによる福音書11章1節から13節)は3つの部分からなっています。①主の祈り(1-4節)、②真夜中の友人のたとえ(5-10節)、③神の誠実な応答(11-13節)です。
 本日の箇所を振り返ります。

 ある時、弟子の一人が祈りを終えたイエス様に「祈りを教えてください」と教えを求めました。それに対してイエス様は「祈るときには、こう言いなさい。」とルカ版の「主の祈り」を教えました。2節から4節です。
 イエス様は「主の祈り」を通して「生き方の理想」を伝えました。それは、「神の国」、すなわち神様が支配されている状態を求め実践していくことであり、人間が生きていく上で必要なものは何かを知り、それを求めるということです。それは、創造主である神様を「父よ」と呼び、御名が聖とされることであり、御国が来ることであり、必要な糧を求めることであり、罪の赦しを願うことであり、試みに遭わせないでほしいということです。
 この箇所で、今回、私の心に特にとまったのは4節の前半の言葉です。「私たちの罪をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」とあります。以前の文語の主の祈りでは「我らに罪を犯す者を我ら赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」となっていて、「人の罪を赦すから私たちの罪もお赦しください」というニュアンスで、信仰に入ったばかりの頃、「私は人の罪を赦すことなどできない」と思ったことを思い出しました。
 現行の口語の「主の祈り」は「私たちの罪をお赦しください。私たちも人を赦します」となって、まず神様に罪の赦しを祈り、その後、私も罪を赦します、という形で、かつてより祈りやすくなったように思います。
 かつての私は、努力すれば人の罪を赦すことができるようになると「人間的に」考えていたように思います。しかし今は、私たちにはできないけれど、「神様にはできる」と考えています。それは、人の罪を赦すということは神様から与えられるものだということを分かった上で、そのことを日々、神様に祈っていくほかはないということです。

 そのような祈りを捧げていくとき、その思いをどのように持ち続けていけばよいかを、イエス様は次の「真夜中の友人のたとえ」といわれる話を通して教えられました。
 
 聖書はこう記しています。5節から7節です。ここでは、真夜中にパンを貸してほしいと友達の家に行った人が「起きて何かあげることなどできない。」と断られるたとえが語られます。
 パレスチナ地方は暑いですから、夕方涼しくなってから歩き始め、時には夜に客人がやって来ることもあるようです。旅人をもてなすのは当然しなければならないことで、それをしないのは、失礼に当たります。しかし、真夜中ですし、もてなす物も既にありません。それで友達の所にパンを借りにやって来ました。しかし、友達は何度ノックをしても起きてくれません。それでも叩き続けたのでしょう。中から断りの返事が聞こえました。
 当時の多くの家は一部屋しかありません。日中は扉が空いていて出入り自由ですが、一旦戸締りをしたら「邪魔をしないでください」という印になるのです。寝る時も地べたの上に藁などを敷いて、家族全員が一緒に眠ることが多かったようです。ですから、一人が起きると皆を起こすことになります。だから「面倒をかけないでくれ。」ということになるようです。ところが、イエス様はこうおっしゃいました。8節から9節です。
「しかし、言っておく。友達だからということで起きて与えてはくれないが、執拗に頼めば、起きて来て必要なものを与えてくれるだろう。そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。」
 「執拗に頼めば」とあります。直訳は「図々しさのゆえに」です。夜中に友人の家に出向きパンを借りる「図々しさ」があるかどうかが問われています。「面倒をかけないでくれ」と言われても「困っているのだから頼む」と頼み続ける「図々しさ」がありますか? ということなのです。そのようにすれば、9節から10節ですが「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。」と。これが神様の原則だと言っているように思います。なお、ギリシャ語の二人称・命令形は継続を意味しますので、ここは「求め続けなさい。探し続けなさい。叩き続けなさい」という意味で、そうすれば、原文は未来形で「与えられるだろう。見つけるだろう。開かれるだろう」ということです。人の取るべき態度は「執拗に頼む」ことであり、そうすれば願いが叶えられるとイエス様は述べておられるのです。

  最後にイエス様は、11節から13節で神様の誠実な応答について述べています。 ここでは、魚を欲しがる子どもに蛇を与える父親、卵を欲しがる子どもにさそりを与える父親はいない、という例を通して、世の父が自分の子に良い物を与えるなら、天の父はもっと良い物(聖霊)を与えてくださる、と言っています。
 泳いでいる蛇と魚は一見すると見間違います。ガリラヤ湖には、海蛇が生息していて、漁をすると魚と海蛇が一緒に網にかかるそうです。子どもが「魚をください」と言うのに、似ているからといって蛇をあげるでしょうか? 
 さそりは卵の殻を破り、中身を食べ、殻を住み家とします。また、白色のさそが身を丸くすると、卵のように見えるそうです。似ているからといって危険なさそりを与えるでしょうか? いくらあなた方が「悪い者」であっても自分の子どもにはそんなことはせず、良い物を与えるでしょう。まして、天の父なる神様は愛する私たちの求めに応じて聖霊(良い物の以上のもの)を与えてくださるでしょう、とイエス様はおっしゃっておられます。
 聖霊は、祈る私たちを助けるペルソナ(位格)をもった神様です。祈りの中で、私たち自身が整えられ、本当の必要に気づかされたり、行動の力が与えられたりするのも聖霊の働きと言えます。父なる神様は、祈り求める私たちに良い物以上のもの(聖霊)を与えてくださるのです。
 
 私たちはどう祈っているでしょうか?
 「執拗に頼」んでいるでしょうか? 頼み続ける「図々しさ」を持っているでしょうか?
 
 本日の福音書で、イエス様は、私たちに必要なことは、慈愛の神様に「父よ」と呼びかけて祈り、執拗に「求め、探し、叩」き続けることであるとおっしゃっておられます。それを忠実に行えば、祈りに誠実に応える神様は必ず聖霊を私たちに送り、必要な助けを与えてくださいます。私たちは聖霊によって常に新たにされ、新たな力を手にするのであります。そしてそれは、祈りによってなされるのです。

 先ほど聖書朗読の前に歌った聖歌548「しずけき祈りの」をご覧ください。この1節にこうあります。 
 1 しずけき祈りの 時はいと楽し
  悩みある世より われを呼びいだし
  父なる み神に すべての求めを
  たずさえいたりて つぶさに告げしむ
 ここでは静かに祈る時はとても楽しい、そこでは父なる神様に求めるものを残さず告げさせた、と歌っています。
 この聖歌には英語で「Sweet Hour of Prayer」という題がついています。直訳すると「祈りの楽しい時」です。楽しいのは、3節で示しているように、慰めが与えられ、喜びで満たされるからです。祈りは、このように楽しいものなのであります。

 本日の福音書で示された、イエス様が教えてくださった「主の祈り」と、一人一人が心に願う祈りを、日々、執拗に図々しく「求め、探し、叩」き続けることができるよう、祈り求めたいと思います。 

 冒頭お話ししたレーナ・マリアさんも、きっと自分の障害等について祈ってきたと思います。そして、神様に直接自分の思いを告げたと思います。しつこく祈ったと思います。「神様、私はどうしてこのような体なのでしょうか?」と。しかし今、レーナさんは、聖霊の導きにより、それには意味があり、「神様は意図を持って私をこのようになさった」と考えていると私は思うのです。
 そのことで思い浮かべる「祈り」があります。それはこの本、2004年に逝去された金子功司祭の遺稿集「主の祈りの世界をたずねて」の中で紹介された「祈り」です。

 受付で取っていただいた説教資料に記載しました。これは、ニューヨーク大学リハビリテーション研究所の壁に、一人の患者が残した「祈り」です。ご覧ください。これを読んで、本日の説教を終わりにします。

大きな事を成し遂げるために、強さを求めたのに、謙遜を学ぶようにと、弱さを授かった。
偉大な事が出来るようにと、健康を求めたのに、より良き事をするようにと、病気を賜った。
幸せになろうとして、富を求めたのに、賢明であるようにと、貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようと、成功を求めたのに、得意にならないようにと、失敗を授かった。
求めたものは何一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞きとげられた。
神の意に添わぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた。
私は最も豊かに祝福されたのだ。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン

『レーナ・マリアに思う(1)』

 少し前になりますが、去る5月18日(日)の朝、群馬テレビの「ライフライン」というキリスト教番組でレーナ・マリアの特集がありました。表題は「愛に輝く歌声!〜レーナ・マリア コンサート2025〜・1」。久し振りに彼女の映像を見て歌を聞きましたが、相変わらずにこやかで、のびのある歌声は変わりませんでした。
 レーナ・マリアは1968年生まれのスウェーデンの歌手で、生まれつき両腕がなく左足は右足の半分の長さしかないというハンディの中、世界を舞台に活躍しています。
 今年、5年ぶりに日本でのコンサートツアーが実現し、番組では4月に東京で行われた公演から、歌声とインタビューの様子が紹介されていました。この番組は以下のURLで観ることができます。
https://www.google.com/search?q=%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%80%80%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B31&source=sh/x/gs/m2/5#fpstate=ive&vld=cid:7ed0d487,vid:rhU8eHyC9XY,st:0

 私がレーナ・マリアのコンサートに行ったのは、1991年テレビ朝日の「ニュースステーション」で彼女の生活が紹介されて、全国ツアーがあったときだったと思います。群馬県民会館で多くのキリスト者や一般の方も集まり、コンサート後には車椅子に乗った星野富弘さんにも遭遇しました。コンサートの中で彼女の生まれた時のことや両親の思いやパラリンピックの水泳に出たりしたこと、日常の生活の様子等が紹介されてから、演奏が始まりました。今回の番組でも冒頭で彼女の生い立ち等が紹介されていました。
 番組で紹介された今回のコンサートでは最新アルバムからの選曲が多く、その中でも私が心に残ったのは「一羽のすずめ」でした。新しいバージョンで最新のCDに収録されているとのことだったので、早速そのCDを購入しました。

 彼女の歌声は年齢を重ねて一層深みが増し、温かく豊かに神様の愛を歌い上げている、と感じました。 
 「一羽のすずめ」は「心くじけて(新聖歌285番)」として福音派の教会の聖歌集にも収められています。歌詞は以下のようです。

1 心くじけて 思い悩み
  などて寂(さび)しく 空を仰ぐ
  主イエスこそ わが真(まこと)の友
 (折り返し)
  一羽のすずめに 目を注ぎ給う
  主はわれさえも 支え給うなり
  声高らかに われは歌わん
  一羽のすずめさえ 主は守り給う
2 心静めて 御声聞けば
  恐れは去りて 委(ゆだ)ぬるを得ん
  ただ知らまほし 行(ゆ)く手の道
 (折り返し)
*などて寂しく→どうして寂しく
 ただ知らまほし→ただ知りたいと願う

 この聖歌は、神の守りと慰めを歌っています。2節の「心静めて御声聞けば恐れは去りて委ぬるを得ん」は先主日のテーマと共通するもので、イエス様の声に聞き従うことによって平安が与えられることを示唆しています。

 この聖歌の歌詞はマタイによる福音書10:29-31の聖句に基づいています。神様の深い真理を私たちに教えようとされたイエス様は、その題材として最も一般的な鳥であり、価値がないと思われがちなすずめを選ばれました。その真理とは「神様の目に、大切でないものは何一つない」ということです。
 この聖歌は、どんな困難な状況でも神様が私たちを御守り支えてくださるというメッセージに溢れています。そして、それがレーナ・マリアの歌声によって豊かに表現されています。
 多くの方がレーナ・マリアの生き方や歌声に触れ、神様の愛とイエス様の声を聞くことの素晴らしさを知ってほしいと思います。

聖霊降臨後第6主日(特定11) 『イエス様の言葉に聞き入る』

 本日は聖霊降臨後第6主日、高崎の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、創世記 18:1-10a、詩編 15、コロサイの信徒への手紙 1:15-28及びルカによる福音書10:38-42。説教では、『マルタとマリアの話』から、「主の足元に座って」主の言葉に聞き入ることこそが必要であることを知り、日々、このような態度で、神様の前に身を置き、主の言葉を聴くことができるよう、主の導きを祈りました。
 先週参加した「説教セミナー」で感じたことや本日のテーマと関係する英隆一朗神父の「イエスに出会った女性たち」やその表紙の聖画にも言及しました。
 本日の説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 私は先週、15日(火)~17日(木)、二泊三日で行われた「説教セミナー」に参加しました。場所は聖公会神学院です。このセミナーは、参加者と共にテキストとして与えられた聖書箇所を丁寧に読むことから始め、ステップを踏んで説教を作成し、最終日には実際に説教をして、参加者から批評をしてもらうというものです。参加者は北海道から沖縄までの聖職6名、それに神学院の校長や教員を含めて9名でした。参加者の年齢層は30歳台から80歳台まで幅広く、私は今も月一、二度福岡聖パウロ教会で説教をされている85歳の九州教区退職聖職、濱生正直司祭から大きな刺激を受けました。退職から15年しても、「このセミナーに参加して学ぼう」という意欲と姿勢が素晴らしいと思いました。最終日の朝、誰が説教をするかくじ引きをしたら、私とその濱生司祭さんがくじを当て、チャペルで午前は私、午後は濱生司祭が説教をして、その後講師の平野克己先生・友野富美子先生(共に日本基督教団牧師)、そしてセミナーの参加者(武藤校長・中村先生・山野先生含む)から説教批評をしていただきました。「間の取り方はいい」、「思います」が多すぎる等、具体的な指導・助言を得て、恵まれた学びの時となりました。説教作成の方法の指針を得て、また、できるだけ長く説教者として、説教を自分のライフワークとして取り組もうという思いが与えられました。「説教セミナー」には昨年も参加しましたが、今回も参加して、本当に良かったと思いました。

 さて、本日は聖霊降臨後第6主日です。第一朗読は「創世記」のアブラハムが三人の旅人に給仕する箇所、第二朗読は「コロサイの信徒への手紙」のパウロが教会に仕える者になった箇所、福音書は「ルカによる福音書」のマルタとマリアのイエス様一行へのもてなしの箇所が読まれました。

 福音書を中心に考えます。ルカによる福音書10:38-42で、9:51から始まったエルサレムへの旅の途上で弟子たちなどに語られたイエス様の教えの一つです。
 先主日福音書では、ある律法の専門家が「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」とイエス様に問い、イエス様は彼に「律法には何と書いてあるか」と逆に問われました。専門家は、「『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と正しく答えます。そこで語られたのが有名な「善きサマリア人のたとえ」です。それは「隣人を自分のように愛しなさい」に関わったたとえ話でした。
 今日の箇所では、残された一つ、「心を尽くして神を愛する」とはどういうことかに重点が置かれています。

 本日の箇所を振り返ります。
 本日の福音書の最初はこうです。38節です。「さて、一行が旅を続けているうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタと言う女が、イエスを家に迎え入れた。」
 ここでイエス様と弟子たちの一行がある家に「迎え入れ」られたのは、エルサレムに向かう宣教の旅での出来事です。ここでは、マルタの心のありように焦点が当てられています。前提とされていることは、マルタの信仰です。彼女は信仰によってイエス様たちを迎え入れたのです。

 そのマルタにマリアという妹がいました。39節です。「彼女にはマリアという妹がいた。マリアは主の足元に座って、その話を聞いていた」のでした。
 この箇所で「座る」と訳された言葉は、原文では「かたわらに座る」という意味の言葉です。通常の「座る」に「かたわらに」を意味する言葉がついている合成語です。「足元に」とあるのですからそれだけで意味は通じるのに、わざわざ「かたわらに」を付け加えています。その家の中には大勢の人がいるのです。12弟子がいたでしょうし、共に旅をしている他の弟子たちもいたと考えられます。そういう人々が大勢いる中で、マリアはまるで当時のユダヤ人男性がラビ(律法の教師)から学んでいるように、イエス様の足元の最も近い所に座って、「その話を聞いていた」のです。ここの直訳は「彼の言葉に聞き入っていた」です。「話」ではなく「言葉」、ギリシア語では定冠詞がついた「言葉(ロゴス)」、それも「彼の言葉」、つまり「主」の言葉です。その言葉によって人が生きもし死にもする。そういう重要な言葉です。その言葉をマリアは主の足元、かたわらに座って一心に聴いていたのです。

 そのマリアを見て、姉のマルタが腹を立てました。40節の前半にこうあります。『マルタは、いろいろのもてなしのために忙しくしていたが、そばに立って言った。』
 「もてなし」とは他の箇所ではしばしば「給仕」や「奉仕」と訳される言葉(ディアコニア)で、極めて大切な言葉です。本日の第一朗読のアブラハムの三人の旅人への「給仕」がギリシャ語では「ディアコニア」です。ここで「忙しく」と訳されている言葉は「脇へ」と「そらす」の二つの言葉の合成語で、ここでは受身形ですから「脇へそらされて」という意味です。「あるべき中心」から引き離された状態です。ここでの「あるべき中心」とは「主イエス様」のことでありましょう。
 続いて、マルタはイエス様のそばに立って、こう言いました。40節の後半です。
「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
 マルタはもてなしを自分だけにさせているマリアに腹が立っているのですが、そのマリアを目の前にし、自分が忙しく働いているのを見つつ、何もおっしゃらないイエス様にも憤慨していたのです。
 
 イエス様はこうおっしゃいました。41・42節です。
「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」
 聖書の中で、神様やイエス様が名前を二度呼びかける場面は、いずれも重要なことを語る場面です。ここでの繰り返し「マルタ、マルタ」は愛情のこもっている呼びかけです。マルタは今、「いろいろなことに気を遣」っている、とイエス様は言われます。そして、「思い煩っている」と。愛情のこもった助言です。
  「しかし、必要なことは一つだけである。」とイエス様はおっしゃっています。この背景にはイエス様の十字架が差し迫っていることがあるように思います。本日のマルタとマリアの箇所は、イエス様が十字架に付く前年の冬のことです。翌年の春にはイエス様は十字架に付かれれるのです。このような状況で「必要なことは一つだけ」、と主は言われるのです。
 さらに、イエス様は「マリアは良いほうを選んだ」とおっしゃいました。その「良いほう」とは何でしょうか?

 それはイエス様の言葉を聴くことです。御言葉を一心に聴くことによって神様やイエス様と出会い、私たちは、初めて神を愛することができるのであります。さらに、先主日の箇所との関連で言えば、永遠の命を得るために必要なことはイエス様の声を聴くことで、それはイエス様に出会うということなのです。

 英隆一朗神父の書かれた「イエスに出会った女性たち」という本があります。この本の表紙の絵が、まさに本日の箇所を表しているものです。絵の部分を拡大したものがこれです。

 14世紀のイタリアの画家、ジョヴァンニ・ダ・ミラノの「マルタとマリアの家のキリスト」です。この絵で、マリアは主イエス様の足元、かたわらに座ってイエス様を見つめ、イエス様の言葉を一心に聴いています。マリアの真剣さが伝わってきます。イエス様もそれに応えて、マリアの心に訴えるようにマリアを見つめ語っています。

 この本、「イエスに出会った女性たち」の「8章 マルタの姉妹、マリア-イエスに聴く」の中にこうあります(P.69~71)。
『イエスにとって「必要なことは一つだけである」。イエスはまずご自分の救いの言葉をじっくりと聞いてほしいのだ。もてなしもうれしかっただろうが、それよりも自分の教えに耳を傾けてほしいのである。そうでなければ、結局、私たちの思い煩いや、心の乱れは直らないからである。だからこそ、マリアの態度に貴重な意義があると言えるだろう、イエスの言葉をじっくり聴くところに、信仰者の基本的な態度が示されているのである。(中略)イエスは全ての信者にパーソナルで親密なかかわりを求めておられる。イエスと言葉を交わし、心の触れ合いを味わったマリアは、たしかに良いほうを選んだのである。』
 イエス様は私たちがイエス様の言葉、御言葉を聴くことを望んでおられます。 それは私たちが「主の声を聞く」ということです。 

 先ほど聖書朗読の前に歌った聖歌447「手をのばし 主にふれよう」の3節をご覧ください。こうあります。
3 耳を澄まし 主の声 聞こう
  道と真理と 命の声に
  耳を澄まし 主の声 聞こう
  天の清らかな 楽の音を
 ここでは、耳を澄まし、道であり真理であり命であるイエス様の声を聞こう、天上の音楽である主の声を聞こう、と呼びかけています。

 私たちが「主の声を聞く」にはどうしたらいいでしょうか? 

 それは、神様の前に身を置き、主の足元、かたわらに座って、聖書を読み祈ることではないでしょうか? それによってイエス様に出会うことができます。  
 では、具体的にはどうすればいいでしょうか? 

 日々、御言葉に親しむ方法としては、聖公会手帳にある聖書日課に添って毎日聖書を読む方法もありますが、私がもう30年以上ほぼ毎日しているのは、この「アパ・ルーム」という日々の祈りの本を使って、その日の該当聖書箇所を読み、そこに書かれている黙想文を読み祈る方法です。この小冊子は2ヶ月ごとに発行されて、7・8月号はこれです。英語版もあります。

 これらはハレルヤブックセンターで購入できます。この「アパ・ルーム」を使い、毎日聖書を読み祈ることで、御言葉に親しみ、神の御心を知ることができますので、お勧めします。 
 また、今日のように主日聖餐式に参列して、御言葉を聞くこと、礼拝の中で、私たちのために仕えてくださる主の言葉を聞くことも大事なことです。
 
   冒頭お話しした説教セミナーでは、聖書を読むことと黙想を大事にして、まず「第一の黙想」で注解書等を見ないで素の状態で、み言葉を丁寧に読み味わいます。次に、釈義を経て「第二の黙想」で辞書や注解書で詳しくこの箇所の置かれた文脈や語句の意味等を踏まえて思い巡らしてから、実際に説教執筆に入ります。一番大切にしているのは、御言葉に聴くということです。

 皆さん、本日の聖書個所で神様は、もてなしや奉仕は大切ですが、あれこれ手をつけ「気を遣い、思い煩ってい」る状態でなく、「主の足元に座って」主の言葉に聴き入ることこそがお望みであることを示されました。私たちはこのマリアのような態度で、日々、神様の前に身を置き、主の言葉を聴くことができるよう、主の導きを祈るものであります。
                                    
  父と子と聖霊の御名によって。アーメン