聖霊降臨日 『聖霊と共に生きる恵み』
本日は聖霊降臨日、新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、使徒言行録 2:1-11、詩編 104:22-32・33b、ローマの信徒への手紙 8:14-17、ヨハネによる福音書 14:8-17。
説教では、聖霊降臨により聖霊はいつも私たちの傍らに寄り添っておられることを知り、聖霊と共に生きる恵みを実感しながら日々歩んでいけるよう、主イエス様の御名によって祈り求めました。
先日この世を去った長嶋茂雄さんへの思いを述べたり、聖霊降臨を描いたティツィアーノの絵画を活用したりしました。
本日の説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
去る6月3日(火)に、私にとっての永遠のヒーローがこの世を去りました。巨人軍終身名誉監督、長嶋茂雄さんです。89歳でした。私は長嶋茂雄さんにあこがれていたので、同じ大学に入った面もありました。新聞やテレビ等では多くの方が長嶋さんの死を悼み、また、ご自分の思い出や当時の社会と絡めて熱っぽく語っておられます。長嶋茂雄さんの魂の平安とご遺族等に慰めがありますようお祈りいたします。
長嶋茂雄さん御自身は洗礼は受けておられませんでしたが、奥様の亜希子さんと御子息の一茂さんはカトリック教会の信徒です。亜希子さんは2007年9月に逝去されましたが、長嶋さんは1980年に最初の監督の座を辞すると、奥様と何度も海外旅行に出かけ、バチカン市国では当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世に謁見し、その後バチカン有功十字勲章を授与されたそうです。多くの人に喜びと生きる力を与えた長嶋さんは、洗礼は受けていなくても、実質としてイエス・キリストの教えを実践された「無名のキリスト者」であったと私は思います。
さて、本日は聖霊降臨日(ペンテコステ)です。クリスマス、イースターと並ぶキリスト教の3大祝日の一つです。聖霊降臨日はイエス様の復活から50日目に聖霊が降ったことを記念する日です。日曜学校の子供たちには「教会の誕生日です」と言っていました。先ほどお読みした使徒言行録2章1節以下にあるように、この日、弟子たちに聖霊が降り教会の活動が始まったからです。なお、復活日から今日までが復活節であり、「大いなる50日」とも言います。ギリシャ語の「ペンテコステ」とは「50番目」という意味です。昇天日から使用してきた「み国が来ますように(Thy Kingdom come)」の「祈りのしおり」も最終日となりました。
聖霊降臨日(ペンテコステ)の由来について少しお話しします。この箇所は多くの画家が描いていますが、今回はイタリアの画家、ティツィアーノのものを紹介します。

1546年作のこの絵はヴェネツィアのサンタマリア・デッラサルーテ大聖堂内にあります。
中央に聖母マリア、その周りにイエス様の弟子たちの驚きの様子が描かれています。聖書本文では、マリアがいたと直接に言及はしていませんが、ティツィアーノはじめ多くの画家はおそらくいたろうと考え描写しています。
本日の第一朗読、使徒言行録2章の記述によれば、イエス様が亡くなった後、五旬祭(過越祭の安息日の翌日から50日後のユダヤの祭り)の日に、弟子たちをはじめ、一同が集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響きました。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだしたという出来事が起こりました。この出来事を記念して、ペンテコステ、「聖霊降臨日」と言われています。
本日は、与えられているヨハネによる福音書の箇所を中心として、特に約束され今も私たちに働いている聖霊について、考えたいと思います。
本日の福音書の箇所は、ヨハネ福音書の14章8-17節です。これまでの聖書日課ではヨハネ福音書の20章19-23節かこの箇所を選ぶようになっていたのですが、今回の改正祈祷書試用版で14章8-17節だけになりました。私は今回初めて、説教でこの箇所について述べます。
この箇所は、イエス様が十字架にかかる前日の夜、「最後の晩餐」後の、いわゆる告別説教の中でなされた話です。場所は、マルコの二階部屋です
本日の福音書は二つの段落で構成されています。最初の段落は14章8-14節、次は15-17節です。ここではフィリポの願いに対する主イエス様の約束が記されています。最初の段落では祈りが聞かれるという約束、次の段落ではもうひとりの弁護者が遣わされるという約束です。それぞれ見ていきます。
まず、14章8-14節です。ここでは「御父をお示しください(見せてください)」と言う弟子のフィリポに対して、イエス様は「父なる神と私は一体である」ことを伝えた後、「私の名前によって祈れば、祈りはかなえられる」と述べられました。
13節にこうあります。
「私の名によって願うことを何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。」
これはどういう意味でしょうか? イエス様のお名前によって願えば、何でも願いが叶うということでしょうか? 私たちは祈りの最後に「主イエス様の御名によって祈ります」とか「主イエス様のお名前によってお願いします」などど言って祈りを締めくくっています。そうすれば祈りは何でも叶うということでしょうか?
ここは13節後半の「こうして、父は子によって栄光をお受けになる。」が重要だと思います。結果として、父に栄光を帰することになる、そういう願いです。つまり、父なる神の思いが実現されるよう、神を賛美する、そういう願い・祈りです。「主の祈り」の中の「御心が天に行われるとおり地にも行われますように」のような願いです。ここでは、信仰を持って祈ることが求められていると思います。12節前半に「よくよく言っておく。私を信じる者は、私が行う業を行うだろう。」とあります。「主イエス様の御名によって祈る」とき、父なる神が栄光をお受けになるよう、「主よ、御心を示し、御心に叶う業を行うことができるにようにしてください」と祈るのであります。
次に、15-17節です。15節で、主イエス様は私たちにご自分の戒めを守るよう求めます。イエス様の戒めを守ることが、主イエス様に対する愛を示すことなのであります。
続く16節・17節にこうあります。
「私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない。しかし、あなたがたは、この霊を知っている。この霊があなたがたのもとにおり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」
これが聖霊です。父なる神は聖霊を永遠に私たちと一緒におられるようにしてくださるのです。私たち一人一人に聖霊が与えられています。この恵みを私たちはいただいているということ、それを心に刻みたいと思います。
この箇所で、聖霊は「もうひとりの弁護者」と呼ばれています。第一の弁護者はイエス様と考えられます。第二の弁護者が聖霊です。「弁護者」はギリシア語で「パラクレートス」です。「そばに(パラ)」「呼ばれた者」(呼ぶ=カレオー)から派生した言葉です。パラリンピックの「パラ(そばに、傍らに、平行の)」は、この「パラ」に由来します。かつての口語訳では「助け主」と訳されていました。英語の聖書を見ますと、この「パラクレートス」という言葉は、「Councelor」(NIV)や「Helper」(TEV)と訳されていました。この言葉は、裁判の席では「そばにいて助けてくれる人」という意味で「弁護者」の意味になります。もっと一般的には、「一緒にいて支えとなってくれる方」と言ってよいかもしれません。
17節の後半の言葉「この霊があなたがたのもとにおり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」のギリシャ語原文を見ると、「あなたがたのもとにおり」は現在形であり、「あなたがたの内にいるからである。」は未来形でした。前者は、聖霊がいつもそばにいて寄り添っていることを私たちに教え、後者は、英語の聖書(NRSV)では「He will be in you.(彼はあなたがたの中にいるでしょう)」で、ペンテコステ以降、このことが現実になったのです。
聖霊は、いつも私たちの「パラ(傍らに)」いてくださるお方です。イエス様は、私たちのために、自分の他に、弁護者であり、助け主であり、カウンセラーであり、ヘルパーである方(聖霊)を送ってくださるよう、「私は父にお願いしよう」と言われたのであります。
そもそも、「聖霊」とは何でしょうか? 「聖霊」の「聖」は「神の」という意味です。「霊」はギリシア語で「プネウマ」、ヘブライ語で「ルーアッハ」と言い、どちらも本来、「風」や「息」を意味する言葉です。聖霊は目に見えないので、その働きを感じさせる「しるし」をもって表現されています。使徒言行録2章では「激しい風が吹いてくるような音」(2節)や「炎のような舌」(3節)がそれにあたり、ヨハネ20章では「息を吹きかけ」(22節)がそのしるしです。
このことを示しているのが、先ほど福音書朗読前に歌った聖歌434番「深い悩みの世の中にも」です。3節をご覧ください。ここでは、聖霊のしるしと、さらに「天の御国を我らの家」と歌っています。歌詞はこうです。
『3 聖霊による 主のしるしと 神のほほえみ 満ちあふれる
み国にのぼる 日の来るまで 安らぎ与え 守りたまえ
ああ すばらしい 天(あま)つ み国の われらの家 』
天の御国は、聖霊による風や炎や息のようなしるしと神様のほほえみがあふれる本来の私たちのふるさと、私たちの家なのです。そして、教会はその天の御国の先取りをこの地上で行う場所なのであります。
なお、この聖歌のオリジナルは唱歌「埴生の宿(Home, Sweet Home)」です。唱歌「埴生の宿」では、「埴(はに)」(土=粘土)むき出しの家でも我が家は楽しい、と歌っていますが、私たちにとっては、聖霊による風や炎のしるしと神様のほほえみがあふれる「天の御国」こそが「楽しい家(Sweet Home)」なのです。
説教の冒頭でお話しした長嶋茂雄さんの傍らにもいつも聖霊がおられ、良き業がなされるよう助けられ、長嶋さんは今は「天の御国」に帰られ、先に召された奥様と安らかに過ごされていると私は信じます。聖霊は私たちの傍らにもいつもおられ、御心に叶う良き業を行うよう助け、それは死後も続き「天の御国」でも共にいてくださるのです。
皆さん、主イエス様は「最後の晩餐」後、弟子たちに、「私の名前によって祈れば、祈りはかなえられる」と、また「もうひとりの弁護者」である聖霊を遣わすよう神様に依頼すると、約束されました。聖霊はいつも私たちの傍らにいて寄り添っておられます。どのような時も聖霊と共に生きる恵みが、私たちに与えられているのです。それこそ人生を支える真の恵みです。そしてそれは、死後も続きます。この恵みを実感し、日々歩んでいけるよう、主イエス様の御名によって祈り求めたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン